故ブラザー阿部のみことばのおすそわけ(43)

今日は、この言葉を心に留め、考えみました。
「キリストによって建てられた神の住まい」となる。 この素晴らしい恵みに召され、預かる私たちは、
「神の住まい」にふさわしいものになっているで
しょうか。 キリストという恵みの土台にいながら、それに
ふさわしいものにならなければなりません。 では、どのようにすれば、神さまをお迎えする
住まいとなれるでしょうか。 その恵みのヒントが、昨日のパウロの手紙にあります。昨日、分かち合いたかった箇所です。 エフェソの教会への手紙6章。 『しっかりと立つことが出来るよう、神の武具を
身に付けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、
正義の胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を
履物としなさい。』 この後にも、キリストを身に付け、祈りによって生きるすべを、パウロは教えてくださいます。 神の住まいとなるために、キリストを着ること。この恵みは、キリストを信じるすべての人に与えられているの
です。「キリストを着る」、何と素晴らしい恵みでしょう。キリストを着ることで、何もおそれることはありま
せん。今日の福音では、イエスが12使徒を選ばれます。12使徒は特別な人ではないのです。
イエスを愛し、イエスに従いたいと望むものは皆、イエスの弟子になれるのです。 キリストを着て、イエスを住まいとして迎え、歩むことが出来るなら、何と幸せなことでしょう。


10月29日、み言葉のおすそわけ。使徒パウロのフィリピの教会への手紙1章。 『私にとって、生きるのはキリストであり、死ぬことは利益なのです。』 今日もパウロの言葉を考えてみました。 私のおすそわけは、よく聖パウロの言葉を使います。 私たちにとって、一番中心になるのは、もちろんイエスの言葉であり、福音です。 私たちの歩みがイエスの福音に生き、倣うものであるからです。 パウロは、そのイエスを生きたのです。 昨日のおすそわけにも書いたように、パウロは、キリストそのものを生き、キリストを着て、
生涯を走り抜けたのです。今日の言葉、『私にとって、生きるとはキリスト』であったのです。 イエスそのものを生きたパウロに倣うことは、イエスを生きることに繋がるのです。 なかなか福音書のイエスに倣って生きることは出来ません。 しかし、自分の弱さと戦いながら、イエスを慕い、イエスの思いを人々の救いのために走り通したパウロ。 とても素晴らしい模範として、私たちの先頭に立って、イエスに倣う宣教の道を示してくださるパウロに
倣いましょう。それは、神さまに倣い。近づく近道なのです。


10月30日、年間第31主日。ルカ福音書19章。 『「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。』 今日は、このイエスの言葉にひかれました。 ザアカイは、「自ら」イエスに出会いに行ったのです。 「どうしても」イエスにお会いしたい一心で。 そして、イエスから、救いと恵みの素晴らしい言葉を頂くのです。 「今日、救いがこの家に訪れた」と。 私たちは、毎日の生活の中で、いつもイエスを求めているでしょうか。 イエスの元に走りよっているでしょうか。 毎日のいろいろな出来事に忙しくして、イエスを忘れてしまってはいないでしょうか。 イエスはいつも、私たちを待っておられます。 罪を悔い、過ちを認め、イエスに駆け寄り、戻ることで、イエスの大きな救いの恵みに包まれることが
出来るのです。 「人の子は、失われた者を探して、救うために来た」のですから。 背の低いザアカイが、イチジクの木に登って、主に出会ったように、私たちも、待っていてはいけないのです。 主を求めなければ。戸を叩かなければ。主を見つめなければ。 私たちをこよなく愛し、慈しみの心で待っておられる、イエスに会うために。