故ブラザー阿部のみことばのおすそわけ(46)

『私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて
くださった人を一人も失わないで、終わりの日に
復活させることである。』 今日は。この言葉を考えてみました。 今日は死者の日です。私たちに関わる亡くなった
すべての死者を思い、取り次ぎを願うと共に、
私たちの「死」について考える日です。 私たちは、誰もがいずれ死を向かえます。 避けて通りたいですが、私たちにとって、
考えなければならないことの一つです。 私たち、神を信じる者にとって、「死は希望」
なのです。しかし、同時に、恐れでもあります。 「死」について考えるのは、本当に苦しいことです。 『私がその人を終わりの日に復活させる。』 「死」は、終わりではなく。「希望」なのです。 ここで、第一朗読の、パウロの力強い確信の言葉があります。 『私は確信しています。死も、命も、支配するものも、現在のものも、低いところにいるものも、
世のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエズスによって示された神の愛から、私たちを
引き離すことはできないのです。』 このすべてを包んでくださるキリストの愛を、私たちは「希望」を持って生きることができると思うのです。 主への信頼を失うことなく、毎日の生活の一瞬一瞬を大切に生きたいですね。
11月3日、み言葉のおすそわけ。ルカ福音書15章。 『そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、
『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。』と言うであろう。』 今日は、このイエスの深い憐れみの言葉に心惹かれました。 神の前で弱く貧しい私たちは、イエスに倣おう、従おうという心はあっても、何度も倒れ、
神から離れてしまいます。 もし、神からの憐れみがなければ、私たちは、生きていくことができません。 ご絵で、イエスが羊を肩に背負っている牧者の姿のカードがあります。「肩に背負う」というのは、
顔と顔を、本当に近くに寄り添うことです。羊をご自分の一番近くに抱くのです。 私たちに語りかけ、一番大切にするという姿を表しています。 ここに、私たち罪人に対する神の慈しみとあわれみの姿が表されます。 第一朗読のパウロの言葉にもこう書いています。 「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では、他の一切を損失とみています。 キリストの教会の大迫害者であったパウロが、180度回心し、イエスの素晴らしさに出会い、
すべてを捨てても代えがたい宝を見つけた時、宣教の道を突き進んだのです。」 弱い人間である私たちも、何度も転びながらも、イエスから離れないようにしましょう。
慈しみ深い主は、必ず、私たちの手を取って導いて下さいます。
そして、私たちの名をを呼んで、迷った羊のような私たちを探してくださっているのですから。 善き牧者であるイエスに、すべてを信頼して身を委ねる、羊のような私たちでありたいですね。 11月4日、聖カルロ・ボロメオ司教の記念日。み言葉のおすそわけ。使徒パウロのフィリピの教会への手紙3章。 『わたしたの本国は天にあります。そこから、主イエス・キリストが救い主として来られるのを、
私たちは待っています。』 「私たちの本国は天にある。」この言葉は、わたしの人生の歩みに希望を与えます。 私たちは、神さまによってこの世に生まれ、生きています。喜びも苦しみも、悩みも楽しみも、
私たちの自由意思でもありますが、すべて、神のみ手のうちにあります。 わたしたは、いずれ、天国の神の元に帰ります。そして、その場所は、神さまによって準備されているのです。
けれども、私たちが神から離れて道を踏み外すとき、キリストは、ご自分の苦しみのように悲しんで
おられるのです。神さまからわたしたは、人類の一人一人を、本当の国籍である天国に招くために
十字架の苦しみを受け、死者の中から復活されたのですから。 今日の拝領唱に「私が来たのは、彼らにいのちを与え、さらに豊かに与えるためである」とあります。
私たち一人一人をご自分の元、天の国に招いておられる主に信頼して歩みましょう。