-信仰・希望・愛について-
先日司教顧問会が広島で開催されたとき、はじめてリモートを通して会議に
参加させていただきました。往復6時間の時間のロスがなく鳥取の地で会議に
参加できることがとっても精神的にも肉体的にも助かりました。
地区宣教司牧評議会は、去年から事務局会議と地区宣教司牧評議会の会議は
リモートで参加していました。リモートにもいろんな種類があることに気がつきます。
スカイプ、ズーム、etc..、いくつもあるので条件も分かれて結構大変でしたが、
なんとか参加することができるようになってきました。
そう言えば、去年の大学の授業もリモートに近いものでしたが、
今のようなリモートではありません。
でもその時も往復6時間と前日からの泊りがなくて本当に助かったという思いが
あったことを思い出しました。
鳥取に赴任して3年目ですが、初めて年末から年始にかけて
二回も雪に降られて雪かきをしました。
そのたびにダルクの方々に手伝いに来てもらい雪かきをしていただいたことに、
あらためて心から感謝したいと思います。
これから本格的な冬の到来というときで、これほど気温が下がったこともなかったので、
トイレの水と風呂場の水道もまさか凍るとは思ってもみませんでした。
幸いなことに台所と自分の個室の洗面台は、シスターの助言で前の晩から
小さく水を流していましたので、凍らずに済みました。
本当にまだ、まだ、鳥取の生活で知らないことがいかに多いかと改めて感じる毎日です。
さて、ここでいくつかの事柄を黙想してみたいと思います。
最初は「信仰について」ですが、九月に出した文章で「信仰」について、
パウロの書簡から引用して書いたように思います。基本は多分変わらないと思います。
九月に書いた文章の中にも「アブラハムの信仰」について書いたのですが、
アブラハムの信仰を、現在に生きる私たちが、どのように生きているかが問われるのです。
すなわち、アブラハムは自分の生涯を神に委ね、与えられた恵み(長子イザアク)さえも
神に献げなさいと言われたときに、黙ってそれに従おうとするのです。
アブラハムの生き方には、常にいつも神と共にあり、神が私たちに与えた、
試練(苦しみ)さえも受け入れて、神との親しい関係をいつも保ち、
意識していたことではないかと思うのです。
つまり、イエス様が教えてくださった「主の祈り」の中にある
「天におられる私たちの父よ」の「父」の表現は、
「アッバ」というヘブライ語の名詞ですが、
「私たちの父よ」というときには「アビヌー」というヘブライ語に変わります。
つまり、私たちにとって大切な家族と同じように親しみを込めて「お父さん」と呼ぶのです。
そのことをいつも、日常生活の中で神に対して言えているかどうかが
大切なことなのだろうと思います。
困ったとき、苦しいとき、不安なとき、いつも「父よ(主よ)、私を憐れみたまえ」と
祈れるようになることなのです。
日常生活の中に父である神の存在を感じて生きているかと問われているのです。
それがアブラハムの神に対する信仰の形であったように思います。
そして、現代に生きる私たちには、さらに大きな模範として、
神の子イエスの言葉と行いが四福音書を通して教えられています。
「神に対する人の道」をどのように生きるべきかと問われて、
私たちの生き方の模範はキリストの生き方なのですと答えて生きる生き方でしょうか。
聖書に親しみ(聖書と典礼を読み)黙想し、自分の生き方をいつも見つめ、
祈りをもって「人のために生きる」いう生き方が求められるのではないかと思います。
ただ、信仰にとっての最大の敵は、「傲慢さ・思い上がり」です。
それは人間にとって宿命とも言える愚かさです。
その思い上がりが私たちの信仰をだめにするものであると、
多くの聖人たちが書き残しています
信仰に生きてどんな希望があるのですか?ということを、
他の宗教者の方から尋ねられたことがあります。
その時に答えたことは「カトリックの洗礼を受けても、
絶対に幸せになれるという保証はありません。
むしろ辛いことや、悲しいことや、不安なことが増えるかもしれません。
お金持ちにもなれませんし、生涯の伴侶が見つかるわけでもありません。」と
言ったとき「だったら、キリスト教の信仰にどんな希望があるのでしょうか?」
という新しい疑問が出てきました。
「私たちは、クリスマスをお祝いしますが、クリスマスがどんな意味を持っているのか、
考えたことがありますか?」と逆に質問したことがあります。
そしたら「毎年お祝いするもので、子どもたちにとってはプレゼントをもらう
嬉しい日のように思います」という答えが返ってきました。
実は「クリスマス」とは、今の社会の中で商業的な意味、
物質的な意味しか持っていないことがよくわかります。
しかし、教会はもっと深い意味を教えています。
旧約の歴史の中で神がすべての人間を神の救いにあずからせるために、
まず神はアブラハムに声をかけ、イスラエルの民をエジプトから導き出し、
カナンの地へと導き、そしてダヴィデ王を王と立てイスラエル王国を建てるのです。
しかし、ソロモン王以後、王国は二つに分かれ北イスラエル王国と
ユダ王国に分かれていくのです。その後北イスラエル王国は滅亡し、
ユダ王国もバビロニア帝国によって捕囚の道を歩むことになっていきます。
それからキュロス王によって捕囚から解放されたとき、
第三イザヤは必ず神の救いが現れることを預言しています。
その救いとは「神による人々の救いでした」。
ところがその救いはイスラエルの復興、イスラエル王国の再生としか、
多くのユダヤ人あるいはユダヤ教を信じる人々は考えませんでした。
イエスは、その救いをユダヤ教から「全世界の人々」に広げ、
全世界の人々に福音を告げることを弟子たちに命じています。
特にパウロは、異邦人の世界に多くの教会を建て、
その使命を果たしてローマで殉教しています。
矛盾に満ちた社会の中で、この世の幸せではなく、
神の国の幸せを求めて生きることが希望であり、
この地上で人間としてどのように生きていくことが
一番人間らしく生きられるかということを、
イエス様の生き方を通して教えられたのです。
それによって私たちは生涯を通して神の国に対する深い希望を持つことができます。
そのために私たちは、キリスト教の本質を学ばなければなりません。
その本質は「愛」です。
Ⅰコリント13章1節から13節に愛ついてのすばらしいパウロの言葉が残されています。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも愛がなければ
私は騒がしいドラ、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使いつくそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、
自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望みすべてに耐える。愛は決して滅びない。
-一部省略-それ故、信仰と希望と愛。この三つはいつまでも残る。
その中で最も大いなるものは愛である。」
私たち人間は、どのように生きることが人として良いことかということを
探し求めてきました。
聖霊は、私たちにキリストがこの地上で生き、そしてなしてきたことを倣うように
教えてくれるのです。
簡単に言えば「他者のために生きる」という愛を持たねばならないことを
キリストはその生涯を通して教えてくださったのです。特に貧しい人々、
困っている人々を助けなさいと教えてくださったのです。
そして、十字架にかかって死ぬほどまでに私たち人間を大切にしてくださった
究極の愛を証ししてくださったのです。