アルベルト助祭の講話全文(教区合同祈りの集い)

 

 11月15日(金)カトリック岡山教会会場で広島教区合同召命祈りの集いin岡山鳥取地区が開催されました。「教区合同召命祈りの集い」は、教区内の三つの地区(山口島根地区、広島地区、岡山鳥取地区)で毎年巡回して開催される教区の行事です。司祭・修道者を志そうとする方々のために祈ります。岡山鳥取地区では、一粒会のメンバーが中心となり、この集いをご準備してくださいました。

 

 講話では、淳心会のアルベルト助祭がご自身について語られました。講話は、ご自身のこの道に対する真摯な誠実な思いが溢れていました。会場では、涙ぐむ方もいらっしゃいました。助祭から、講話の原稿をいただきました。お話のなかには、アドリブもあり、とても豊かな内容となっていました。

 アルベルト助祭のため、また、司祭・修道者に導かれようとする全ての人々のため、お祈りください。

 

 

広島教区合同召命祈りの集い

 

20191115

 

       

 皆さんはじめまして。インドネシアから来た淳心会のアルベルト助祭と申します。今は倉敷教会で生活しています。皆さんがご存知の通り、インドネシアは世界でイスラム教が一番多い国です。しかし、インドネシアはイスラム諸国ではなく共和国です。今は七つの宗教が法的に認められています。

 

 

      今日、私が話しているのは神学校的な召命ではなく、自分が経験している召命です。なぜかというと、淳心会に入ってから、召命についてたくさん読んで、教えてもらいましたが、淳心会に入る前に、教会が教えている色々な召命の説明を知らなかったからです。そのゼロから始まった召命の歩みを話したいと思います。

 

 

      故郷は、フロレス島というカトリックが多い所です。元々、私の家族や親戚などはすべて、カトリック信者でありますが、最近はミックス結婚のためにイスラム教に変わる人がいるのです。しかし、宗教が違っても問題はありません。信仰とは個人的なことであり、自由に決めることだからです。

 

 

       私は、子供の頃から教会が大好きです。故郷では教会は24時間開いて、いつでも入ることができました。現在、全国のテロなどの問題で変わっているかもしれません。そして、教会は、大きくて広いですから、子供たちが教会を遊び場として使いました。確かに教会とは聖なる所ですが、子供たちはこのことを理解できなかったのです。気づかずにその教会は私の召命の歩みの出発点となっていました。

 

     

 私は子供の頃、侍者の役割をよく行ないました。ミサの中で司祭の近くに座って、奉仕するのは楽しかったです。司祭はこんなに人々に愛されて、生きるのは本当に素晴らしい生活だと感動しました。それで、少しずつ司祭の生き方に興味が湧き上がって、神父になりたいという夢が心の中に出てきました。そして、母の従兄弟は神言会の神学生でした。今は司祭としてフィリピンで働いています。彼がフィリピンから休暇で来た時、たくさんの素晴らしい経験を伝えてくれました。

 

    

 ところが、フロレスで小神学校は中学校から始まりました。それで、自分の夢を叶えるために、小神学校に入りたいと思いました。しかし、残念ながら、遊んでばかりで、あまり勉強しなかったために、入学試験に合格しなかったのです。

 

    

  そして、教区の中学校に入りました。2年生まで召命ということをあまり考えませんでした。しかし、3年生の終わりぐらいにどういうわけか、子供頃の夢が心の中に再び戻ってきました。本当に強かったです。高神学校に入ろうと思いましたが、残念ながら当時の学校のルールによって高校を卒業するまで同じ学校で勉強を続けないといけませんでした。高校2年生まで、勉強に気を配りすぎて、召命に対する興味を全く失ってしまいました。

 

       

  しかし、皆さん、神様の働きは人間が予想することができません。高校3年生の後半に同じ夢が三回目に心の中で急に出てきました。それにしても、二回の失敗の経験の影響が残っていますから、今回まじめに考えようとしませんでした。しかし、家族に相談してから、神学校に行っても大丈夫だと言われて、やっとカルメル会の神学校に入りました。

 

     

    実はカルメル会の神学校は研修のような一年のショ-トプログラムでした。目的は小神学に入ったことのない神学生たちに神学校の生活を紹介するためでした。そして、そのショートプログラムを完成した後に、神学生たちは必ずカルメル会に入るとは限りません。ですから、一年間の間に色々な教区や宣教会などの養成担当が来て、説明していました。残念ながら、淳心会の養成担当が来なかったのです。私は淳心会のことをチラシを読んで知りました。

 

         

  淳心会の本部はジャカルタという遠い所にあります。その時はインターネットや携帯電話はそんなに普及していなかったから、手紙しか使いませんでした。ですから、申し込みの答えをもらうのは遅くて、三週間かかりました。しかし、良い答えでした。私は淳心会に入ることができたのです。

 

                  

  淳心会に入ったのは200691日でした。大神学校に入る前にマカサルという他の島で一年の準備が行われていました。それで、船で行かないといけませんでした。私は家族から離れて、他の島の遠いところまで行くのは初めてでした。

 家から港まで4時間かかって、父は留守番して、母は港まで私を連れていきました。マカサルまでは伯父さんと行きました。本当に悲しかったです。なぜかとういうと長い休みの時、いつも兄弟たちの五人と家で集まって、楽しく一緒に時間を過ごしました。これから、休みは3年ごととなって、休暇の時に兄弟姉妹が家にいるかいないか全然分からなかったからです。その家族的な喜びが無くなるかもしれないと考えていました。

 一番悲しかったのは船に乗った時でした。船は少しずつ動き始めると、ずっと港で立っている母との距離も長くなりました。船が港から離れるにつれて、母の姿が小さくなりました。私は母の姿が完全に見えなくなるまで、船の一番上の甲板に立ちました。母も船の姿が見えなくなるまでずっと港で立っていました。息子と母の繋がりはどうしても言葉で説明することができません。海の中での三日間の旅でした。

 

      

 淳心会との歩みのスタートは簡単ではなかったのです。9ヶ月後私は内臓の問題で手術をしました。すごく心配してしまいました。なぜかというと、淳心会のルールは厳しくて、大きな健康の問題を持っている人は続けることができなかったからです。それで、「神様、ここまでは私はよく頑張りました。次のレベルに行くことができなくても大丈夫です」と心の中で祈っていました。意外にも、私は次のレベルに行くことができると決まりました。

 

     

  20078月ジャカルタにある大神学校に入りました。3年生の前半までは良かったですが、三年生の終わりぐらいに急に同じ内臓の問題が再発しました。論文を書いているなかでした。ストレスが溜まって、落胆してしまいました。しかし、神様の助け、同級生と家族の励ましのおかげでその大変な状況を過ごすことができました。

 今回きっと辞めさせられると思いましたが、まだ淳心会との歩みを続けることができると決まりました。それで神様からの召命が強くなって、最後まで頑張りたいと私は神様に約束しました。

 

                  

  初誓願は2012712日でした。次のレベルはフィリピンで勉強することでした。外国に行くのは初めての経験です。家族から離れるのはもうなれましたが、さらに遠くなることで、特に両親はもう年を取ったことが気になりました。

  それにしても、淳心会は国際的な宣教会であり、外国に行って働くのは必要であることに気づきました。その宣教師という生き方は自分が選んだからこそ、最後まで頑張らないといけません。

 

       

  フィリピンでの勉強は2年間のプログラムでした。その2年間の中でもチャレンジがたくさんありました。住んでいるコミュニテイには色々な国からの神学生が一緒に生活していました。文化も考え方も異なるために簡単ではなかったのです。一番大変なのは肺の感染で6ヶ月の医療を受けないといけませんでした。

 その時、自分の召命について深く考え始めました。将来淳心会に負担にならないように、諦めたほうが良いと考え、辞めさせられるとすればありがたかったです。それですべてのことを神様に任せながら、淳心会の決断を待っていました。

 

         

  皆さん、神様は私を辞めさせると思いましたが、逆に私は日本に派遣されると決まりました。今回までの歩みは自分の力ではありえなかったのです。神様の計画は私の計画と全然違いました。2015915日に日本に着きました。関西空港の朝6時の涼しい空気を吸うことは心の中に残っている最初の使命地の思い出でした。

 

        

  最初の住む所は大阪の金剛教会でした。初めて日本に着いた時、日本語は全然分かりませんでした。はいといいえという言葉は知っていましたが、人に質問された時、どうやって答えるといいかは分からなかったために、笑顔だけを見せました。

 

        

  日本語学校は2年の契約でした。毎日朝早くから学校まで通いました。最初の日、すべての電車は同じだと思って、急行電車ではなく普通電車に乗り間違いました。それで学校に1時間遅れてしまいました。学校の後にあまりにも疲れてしまって、何回も乗り越してしまいました。本当に忘れられない思い出がたくさんあります。

 

        

  そして、日本語を練習するために、一年間くらいビアネ館という大阪大教区の神学生のための家に日本人の神父さんと一緒に生活していました。大阪で3年を過ごした後に、201811月に岡山鳥取地区の倉敷教会に移動しました。終生誓願と助祭の恵みは倉敷教会に住む中で受けられて、今まで助祭としての役割は倉敷ブロック共同体に行われています。

 

         

  皆さん、この長い歩みから大切なことは四つあると思います。一つ目は召命は神からの恵みであり、時々人間の考えで理解できないことなのです。私は本当に神学校に入るまで時間がかかって、神様は私の忍耐を試すかのように感じました。

 なぜかというと小神学校に入ろうと思っても、失敗してしまいました。逆に自信がなくて、疑った時に入ることができました。

 その経験を振り返ることで召命は人間が得ることではなく、神様の恵みであることが分かるようになりました。

 

       

  二つ目は神からの召命に答えるのは簡単ではないことです。途中で必ずチャレンジがあるます。私の場合は体の弱さのチャレンジなのです。

 しかし、自分の欠点や弱さに気づきながら、神様を信頼することで歩むことができました。聖ヤコブが言った通りチャレンジや試練などは忍耐を生みます。

 

                  

  三つ目は神様の召命に答える途中で大きな犠牲を必要としたことです。外国で働いている間に、一人ずつ愛している人たちが亡くなりました。そして、両親が病気になる時どんなに両親のそばに居たくても、できなかったことは時々悲しみの原因となりました。

  しかし、必ず悲しいことは全部神様に任せます。神様はすべての司祭の犠牲に目を留め、すべての愛している人たちのために計画があるはずだと私は信じています。

 

    

 四つ目は召命とは個人的なことだけではなく、教会に繋がることなのです。召命は教会の中で生まれ、成長し、完成することなのです。ですから、信者たちの助けと祈りは本当に大切なのです。

 そして、司祭たちは神様に選ばれた者であるからと言って必ずなんでもすることができるとは言えません。彼らは普通の人間であり、欠点や弱さに囲まれています。ですから、困っている時、信者さんの助けや協力が必要であると思います。

 

 

       最後に、今日聖アルベルト司教教会博士の記念日に、自分の神様からの召命について皆さんの前で話しているのは本当にありがたいと思います。私の歩みは長いです。今までは13年になります。

  しかし、召命の歩みは時間に関係なく、走行を計ることではなく、単に神様の恵みであり、神様と共に生きることであるのです。それで皆さん、カルメル会の神学校の時に選んだ自分の好きな聖書の言葉を読むことで、この短い話しを終わりたいと思います。

 

『私を強めてくださる方のおかげで、私にはすべて可能です』

             ピリピ人への手紙413

 

 皆さん、私のために、すべての司祭と神学生とシスターたちのために

 祈ってください。ありがとうございます。