遺言みたいなもの① ~カトリックかさおかより~

カトリックかさおか2月号が届きました。山口道晴神父のお話をご紹介いたします。

 

 長い間お世話になったこの笠岡教会を次の復活祭までで、広島の司教館から一番遠いところにある教会に引っ越すにあたり、信仰について語り足りなかったことをまとめてみたいと考えています。まだ死ぬ気はありませんが「遺言みたい」にして残しておきたいと願っています。廿日市教会(4年2ヶ月)、尾道教会(11年)、福山教会(2年)そしてこの笠岡教会で5年の月日を過ごさせてもらいました。私の暁の星女子中学・高等学校の6年間の校長としての自分は、私の司祭としての使命に目覚めさせてもらった大切な時期であると、この一年間をのんびりと過ごしながら深く神様の御手の働きの凄さと、神様の摂理の深さを日々感じさせていただいていました。

 

 「信仰とは何ですか?」「信仰とは、神様に対する人の道です」。とは言っても私たちの価値観をどこに置いているのでしょうか。価値観がこの世の幸せだけを求める自己中心的なものであるならば、その信仰は絵に描いた餅みたいなものです。様々な出来事の中にあってもいつも神の方に目を向け、神のみ旨はどこのあるか問うて生きること。どんなにつらい悲しいことがあっても神のみ旨を信じて前向きに生きること。このように日々どのように生きているかが常に問われます。

 

「この世の私たちの希望は何ですか?」

 

 私たちの希望は、この世で富を増やし、この世で幸せになることではありません。多くの殉教者が信仰に生き、神の約束を信じて自分たちが持っていた信仰の価値観、天国への期待によって信仰を守り続けながら殉教したのです。そういう信仰をもたず、この世の価値観に流されながら生きている限り、キリストへの信仰は育たないのです。何よりもまず私たちの不完全さを、罪深さ、信仰のなさを謙遜に認めることからしか始まりません。

 

 「神様の愛に生きるとはどのようなことでしょうか?」 神様の愛とは、「まず神様が私たちの惨めさをみてそこから解放するために、救いのご計画をお建てになったのです」とある通りに、まず神様が私たちを愛されたのです。その愛は、私たちが考えるような不完全な愛ではなくパウロが述べているような愛なのです。「キリストは神の分身でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでも、しかも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリッピの信徒への手紙2章6-9節) 神はまず私たちを愛し、神の子キリスト・イエスまで私たちに下さったのです。そのキリストの生き方こそキリスト者の生き方であり倣うべきことなのです。

 

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず高ぶらない。礼を失せず自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてをしのび、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」(コリントの信徒への手紙13章4-7)これらの言葉もすべてキリスト・イエスが私たちとともに寄り添って示してくださった具体的な生き方ではないでしょうか。パウロは次のことを考えています。

 

 「兄弟たち、私自身はすでに捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろにものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために目標を目指してひたすら走ることです」(フィリッピの教会の信徒への手紙3章13-14節)私たちは、どんなときにも神に向かって走らなければならないのです。神以外に私たちの生き方を支えて導いてくださる方はないのですから。

 

 「信者のあるべき姿とはどのようなものでしょうか?」 テサロニケの信徒への手紙の中でパウロは次のように言っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることなのです」(Ⅰテサロニケの教会への手紙5章16-18)とあるように苦しいとき、悲しい時、つらい時にこそ、キリスト者であることを証しすべきですと教えています。イエス・キリストが教えてくれた生き方を淡々と生きることの大切さを教えてくれているようです。そして「継続こそ力なのです」朝晩の祈りをおこなうこと、謙遜に生きること、一日一日が大切なのです。

 

 この5年間言い続けて来たことがあります。「ミサに与るときに本当に心から準備をしてミサに与ってください」と。ミサを準備するとは「主よ、ミサに与かる私の心を整えてください」と祈るだけでなく、一連のロザリオでも心を込めて行う練習が求められています。そしてやはり重要なことは、習慣的にならないということなのです。

 

 ただ習慣的にミサに与ることを反省するだけでなく、どうすればミサに良く与ることができるかは、皆さん一人ひとりの努力と練習にかかっています。

 

 前にも説教の時、なんどもいいましたが、「教会」は、キリストに学ぶための場所であり、人間が神の愛を学ぶ「学校である」ということが言われます。自分が何者であるかを確認する場所ではなく、謙遜にキリストの生き方を学ぶ場所なのです。教会の行事に参加することが悪いことではもちろんありませんが、「自分が目立ちたい」「わたしはこんなに教会のことを知っている」「み言葉もこんなに知り、意味も自分はこういう風に理解している」という傲慢さは「キリスト」が一番嫌うあり方です。むしろ「自分はなにも知らない。だから教えてください」という謙遜な姿勢こそが神様が一番喜ぶあり方ではないでしょうか。

 

 最後にもう一つだけ話をさせてください。み言葉を自分勝手に解釈して人に教えないでください。教会はプロテスタントの教会のように自分なりの聖書の解釈を禁じています。しっかりとした聖書神学や、聖書学、聖書考古学を通して、聖書の解釈をよりイエスさまの時代のみ言葉に近いものを見いだそうと研究しています。だから、「み言葉の分かち合い」に指導者がいないことはたいそう危険です。また、集会司式やみ言葉の祭儀における説教は、必ず司祭の指導を受けるようにと教会は定めています。パウロの時代コリントの教会で起こったことは、現代の教会でも起こりうることでもあるのですから。もう一度言います。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝できる2月になりますように。