新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。まだまだ未熟者ですが、主のみ旨の中で過ごす一年となりますようにお祈りください。
去年のクリスマス黙想会では、「let it be」(主の思し召しのままになりますように)という言葉と「let it go」(ありのままに)という言葉を使って私たちキリスト者の在り方について、笠岡教会、玉島教会、三原教会でもお話をさせていただきました。
本当に私たちは、信仰をもって生きると言う時に、形だけの信者になっているのか、居場所として教会を利用しているだけなのかをよく考えなければなりませ ん。「let it be」をビートルズが歌っているように「知恵の言葉」として受け止めているのか、耳に心地よい言葉としてだけ受け止めているのか、その生き方を見てると分 かります。
今年一年どのような一年にするかは私たちの心にあります。日本の新年は1月1日ですが、キリスト教会の新年は、待降節第1主日から始まっています。黙想 会もミサの中の説教もただ聞き流すだけでなく、これからの自分の生き方につながる聞き方、心の置き方が求められているのです。
「どうせ何かを決心しても変わり映えのしない一年だから」とか「面白ければ聞くけど、面白くないから聞かない」という姿勢ではなく、キリスト者としてこ ういう点に気を付けてこの一年を生きて見ようという決心が必要なのではないでしょうか。その時に主日の説教を聞いて、み言葉を読み返して自分の生き方を考 える必要があると思ってほしいのです。
教会は、信仰の先達者たちを、聖人として掲げていますが私たちの心の中では、「どうせ聖人になるくらいの人だから、私たちとは違った信仰の深みを持ちそういう生き方をした人たちだから、私たち一般信徒は、関係ないだろう」と言っているのではないでしょうか。
い いえ、聖人たちのほとんどが信仰に目覚め、神の言葉に目覚めるまでは、私たちと同じ一般信徒でした。もし、私たちと違うとすれば、み言葉について、生き方 について目覚めた時に、素直に神に従って歩もうとする心がありました。その心はどうすれば育つのでしょうか。現代のように新聞だテレビだ、インターネット だという時代に、非常にアナログなものですが「祈り」という古代キリスト教より伝わったオーソドックスな方法によってでしか育ってはいかないのです。
か つて留学中に、アフリカ人の神父さんからごミサの招待を受けことがありました。ローマの郊外の庭で行われたミサでしたが、ほとんどの参加者が、腰蓑を付 けTシャツを身に着けての参加でした。男性の参加者の中には木で作った槍や、動物の皮を張った太鼓をもって参加している人もいました。司式を行う神父さん と共同司式の私たちは、祭服やアルバを身に着けての参加でした。
入祭の時、太鼓が鳴り響き、踊りが始まりました。そしてそれが10分ぐらいも続くのです。その間に祭壇の上に上がり座って待つのですが、その踊りと歌がミサの歌であり、祈りなのだと気がついて非常に感動したことを覚えています。
形式的な祈りではなく、本当に神様との対話を行うこと。祈った後で心から神様に委ねる心(let it be)という心が生まれるまで練習しなければならないのでしょう。練習不足は、いつも神様は祈りを聞いて下さらないから自分の思った通りに生きよう (let it go)という心をさらに助長させるのではないかと思います。
マリアさまに倣って、日々祈る練習を繰り返すことが私たちの今求められていることのように思います。この一年、去年と同じように過ごせれば幸せだと思う心 ではなく、病気になっても、年老いても祈ることが出来るキリスト者に成長できる年を目指してほしいと思います。
生きているだけで辛いこともたくさんあるでしょう。この世に希望を持てない時もあるかと思います。ですが神様がお与えになる試練を受け止めながら、キリス トと共に復活するという希望は失われることはないのです。その希望をマリアさまは、生涯祈ることを通して保ち続けられたのではないかと思います。
良い一年となることが出来るように祈って行きたいと思います。